「〜しなければならない」思考、「~するべき」思考をするまじめな人へ

 定期テスト期間が終了しテストを返却されると、生徒それぞれ色々な感想を持つことと思います。努力した通りの結果が出た人、努力以上の成果を出せた人、あるいはその逆で努力したにもかかわらず納得いかない結果だった人など。

 全く勉強せずテスト結果もさっぱりだった人は当然のことかもしれませんが、中には本当に血のにじむような努力をしながらも結果が伴わなかった人だっているはずです。自分の行動に対し思うような結果が伴わなかった場合、やっぱりショックだったりします。そのショックを糧に次に活かせればその結果も意味あるものになりますが、中にはそのショックを引きずってしまい長く気分的に落ち込んでしまう人も少なからずいるものです。そしてそのような傾向にある人はまじめな人が比較的多くいるように感じます。

 気分的に落ち込んだままでいたら、できるものもできなくなってしまう危険があるのもまた確かなこと。なので、できるだけ早い段階でストレスを解放しておきたいものです。

完璧であること

 まじめな人ほど物事を完璧にやろうとする傾向が強く出ます。これは素晴らしいことなのですが、この「完璧」というところが実はかなりのくせ者
 完璧とは「絶対であること」、「少しの隙も許さないこと」という意味です。そして物事を完璧にこなそうとする人にはまず間違いなく次のような信念があります。

「〜でなければならない」
「〜しなければならない」
「~するべき」

 まじめの度合いが強い人ほど、意識的にも無意識的にもこの表現を多く使った言い方をします。
「テストでは100点を取らなければならない」
「毎日5時間勉強しなければならない」
「授業が終わった後には部活に行かなければならない」などなど。

 また、「〜でなければならない」「〜しなければならない」「~するべき」という表現には「強制する 強制される」というニュアンスがあります。

 ここで少し考えてください。

「テストでは100点を取らなければならない」
 一体誰に100点取れと強制されているのでしょうか?
「お前は今度のテストで100点取れ」なんて学校の先生から言われますか? 言われないですよねぇ。そんなこと言うんだったら誰でも正解できる問題だけを出題しろって話です。

「毎日5時間勉強しなければならない」
 毎日5時間誰かに監視されているのでしょうか?
「あなたは毎日5時間勉強しなければならない」なんて誰から言われます?
 こんな言い方するのはコンピュータ位ですよ。あと英語の教科書。

「授業が終わった後にはクラブ活動に行かなければならない」
 部活ってやりたいことがあるから参加するものなんじゃないですかね?
「君は授業が終わった後にクラブ活動に行かなければならない」なんていわれるとものすごい違和感を持つでしょ?
 そもそも部活自体が嫌いなら辞めてしまえば良いだけだし、嫌々行くクラブに何の意味があるんだか。最初はサッカーをやりたくてサッカー部に入ったものの練習が厳しくて嫌になってきた、というならまだ解ります。だとしても嫌なら辞めれば良いだけの話です。

 ホストクラブに行かなければならないとか、キャバクラに行かなければならないなんて言い方を不自然と感じるのと同じですよ。


 「ガハハハッ、私は銀座の高級クラブに行かなければならないんだよっ」なんて言われ方したら、「え゛っ、行きたくないんですか? 行きたくないなら代わりにぜひとも行かせてください、でも負担はお願いします。」って感じです。


 まぁ、ホストクラブやキャバクラはとりあえず置いといて、「〜でなければならない」「〜しなければならない」という言い方は誰かに強制されていることの表れだ、ということは何となく理解できると思います。

誰から強制されているのか?

 そうすると一体誰から強制されているのかということになります。
 テスト100点については、少なくとも先生から強制されているわけではないようです。勉強時間だって、決められた時間ずっと誰かが監視しているわけでもないですよね、普通は。部活だってやるやらないの選択は自分でできるはずです。もしやるやらないの選択ができないなら、それはそれで自由がないということだからかなりの問題だと思います。
 銀座の高級クラブに行くことを強制されるなら、私なんかあっという間にお金が無くなります。(汗

 結局のところ「〜でなければならない」「〜しなければならない」「~するべき」という言い方は、自分で自分に強制していることになるんです。

 どうしてそうなるのか・・・。
 例えば、ある目標を持ったとします。その目標を達成しようと最初のうちはがんばっている。がんばっているんだけどそのがんばりがいつの間にか義務に変わってきてしまっている。義務だから当然しなければならないという思考になる。

 つまり最初は「○○でありたい」ということで目標を立てたのに、まじめな人であるがゆえにその思いが強すぎて「○○でなければならない」「〇〇べき」という思考に変化してしまい、それで窮屈さを感じてしまうわけです。窮屈さを感じたら楽しんでやるなんてできないですよね。窮屈さを感じたらそれはもう立派なストレスです。少しくらいの窮屈さならいい刺激になるかもしれませんが、長く続くとやっぱりよろしくない。

 最初は「テストで良い結果を残したい」ということでテストで100点を取るという目標を立てたのに、何かのきっかけで「100点取らなければならない」という思考に変わり自分で自分に強制をかけ窮屈になってしまう。

 最初はキャバ嬢にちやほやされたいという思いでキャバクラに行ったものの、まじめな人であるがゆえに、いつの間にか「キャバ嬢にちやほやされなければならないからキャバクラに行く」なんて言ったら、絶対変だって感じますよね。あげく「ボクは綺麗なお姉さんたちにちやほやされるべきなんだ!!」なんて言い出したら、これはもうハッキリ言ってアホ丸出しじゃないですか。
 ちやほやされなければならないという考えのもと、いつまでたってもちやほやされなければ窮屈さを感じストレスに感じるはずです。
 そんなことをキャバ嬢たちが知ったら、そのクラブのロッカールームはまじめ君の話で大盛り上がりですよ、疲れる客だって。次回ご指名したって適当な理由をつけられて断られるのがオチです。

自分自身を強制することから抜け出すには

 話はおもいっきり脱線しましたが、「自分自身に強制をかけてしまうとそこには窮屈さが生じてしまい、本来思い描いていた結果とはだいぶ意味合いの違った形で結果が出る危険がある」ということは想像できると思います。そしてまじめな人ほどその罠に陥る危険性が高いということです。
 すると「〜でなければならない」「〜しなければならない」「~するべき」思考から抜け出すにはどうすれば良いのかということになりますよね。

 それはズバリ、サボれ!! です。

 まじめな人は「サボること=悪」と決めつけている感もありますが、むしろまじめな人はサボる位が息抜きとしては丁度いい。
 言い方を変えれば、「自分自身を強制するのを少し休みましょうよ」ってことです。
 ただまじめな人はまじめであるがゆえに、「自分自身を強制するのを少し休みましょうよ」という言い方で伝えると、「自分自身を強制することを辞めなければならない」と考えてしまい本末転倒なので、ここはあえて「サボれ!!」です。ただ間違ってもサボらなければならないなんて解釈はしないでくださいよ。

 もちろんまじめに頑張ってきた人に向けての意見ですからね。ずっとサボりっぱなしの人に対してはそんなことは言いませんから。




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